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2006年 06月 26日
岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』は、読んだは読んだが、読後感は「なんだこんなもんか」であった。
本の表紙を飾る絵の不気味さが、物語そのものの不気味さを遥かに上回っていたのだった。それにまんまと騙され、過剰な期待をしてしまったのだった。「ジャケ買いで失敗」の典型です。 日本髪に結った青白い顔の女がぼんやりと微笑んでいるその絵、「横櫛」を描いたのが、甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと)という画家です。 「甲斐庄楠音」という、なんて読んだら良いかわかんない姓名を持つ画家とその絵は、1993年6月号の『芸術新潮』、「悪趣味のパワー」という特集ではじめて知った。 そのとき載っていた「女と風船」という絵は、大正15年の国展に出品したものの、 「穢い絵は会場を穢くする」 と土田麦僊に言われ、展示を拒否されたといういわくつきのもの、と解説されていた。 絵そのものは現存していないという事で、図版はモノクロームの写真だったが、しかしこれのどこが「穢い」というのか。よくわからない。 昼なのか夜なのか判然としない暗い部屋の中で、薄物をまとった女がしどけなく横座りして、女の顔の少し上にぼっかりと風船が浮かんでいる、それだけの絵。確かに「清々しい」にはほど遠い絵だが、これが「穢い」というもんなのか。よくわからない。 だからといって「綺麗な絵」では勿論ない。眺めているうちになんとなく不安な、嫌な気分になってくる。 ページを閉じたあとも、風船と女の残像にしつこくつき纏われる感じが残る。絵の中の部屋に、夢でうっかりと入り込んでしまった事もあった。 少し経って久世光彦氏の『怖い絵』を読んだら、「“二人道成寺”の彼方へ」という章で甲斐庄楠音が取り上げられていて、当然のように、「穢い絵」事件についても言及されていた。 久世さんは、甲斐庄楠音について「死姦者」の目を持つ画家であるという仮説を立てた上で、ご自身の幼少期の屍体目撃譚と抱き合わせて「女と風船」の絵解きをしている。 もし、この女の肉体に微かな死臭を嗅ぎとったとしたなら、そしてそれ故に〈穢い〉と言ったのなら、麦僊の嗅覚は恐ろしいと言わねばならない。 そう言われればもうそうとしか思えない、とクラッときちゃうほど「久世さん」な分析だと思う。 しかし、“絶対の評語”としての「穢い」が指すものって、どういうものだろう。 反転すれば「綺麗」にも変わるようなものではない、絶対の「穢い」って。 それが解らずに済んでいる事は、それを見ずに済んでいる事は、たぶん幸せな事なんだろう。 そんな甲斐庄楠音を、昨日、『新日曜美術館』が取り上げていた。 「穢い絵だが生きている」という副題だった。 晩年の助手であった方の証言によれば楠音は、 「わしの絵の女は、針で突いたら血が出る。ぷーんと女の人の匂いがする。これが生きているという事や」 と語っていたそうである。片や久世さんはこう読む。 その肉の下からいまにも滲み出ようとしているのは、血でも汗でもなく、薄桃色の膿汁なのではないだろうか。 甲斐庄楠音自身は、そういう「穢い絵」を描こうと思ってそのように描いたというわけではないだろうし、だからそれが「穢い」と言われてしまった事はどれほどショックだったろうか、と思う。 「穢い絵で奇麗な絵に打ち勝たねばならぬと胸中深く刻み込んだ。」 とまで書き残している。楠音自身の言葉である「穢い絵だが生きている」の裏には、 「“綺麗”だけに傾いた生などあり得ない」 という、「穢い」という一言で以て画壇を追放された画家の意地のようなものも感じられるけれど、画家自身は「生」を主張し、一種覗き見の達人ともいえる久世光彦さんのような方はそこに「腐臭」を嗅いでしまうというのも、ちょっとおもしろい。 だが、そこまで「生きている」を掲げているにもかかわらず、肝心の「女と風船」がテレビの画面に現れる事は無かった。 「穢い」=「生」と肯定するならば、なぜ「穢い絵」と決めつけられた、まさにその「女と風船」を視聴者に見せないのだろうか。 なにか、あの絵をお茶の間に曝す事について、それを憚る事情があったのだろうか。 久世さんの分析と照らし合わせてつい穿った事も考えてしまう。 代わりに「横櫛」や「幻覚」、「島原の女」、「春宵」などが出てきていたが、この「春宵」というのもまた、 「こっちのがむしろ積極的に穢いんじゃないでしょうか」 というような物凄い絵で。 曾我蕭白(そがしょうはく)と「デロリ」について書いた記事でもちょっと触れた、やっぱり『芸術新潮』の「仰天日本美術史 “デロリ”の血脈」(2000年2月号)は、甲斐庄楠音の「舞ふ」が表紙で、「春宵」も載っているんだけど、その「春宵」とカップリングで見開きを飾っているのが、私のフェイバリット観音、室生寺「十一面観音菩薩立像」。 自分の中で「綺麗」と「穢い」は、生と死とはまた別に、こういうふうに並び立っているんだろうなあ、という事をあからさまに教えてくれる、両者の対比ではあります。
by red_95_virgo
| 2006-06-26 16:11
| art
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Comments(4)
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あい
at 2006-06-27 21:41
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こんばんは。
偶然私もその番組を見ました。修羅と菩薩、天使と悪魔、 混沌と静謐・・・生きることは、炎と氷を両方背負うようなものかも しれないと、あの絵を見て感じましたね。
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red_95_virgo at 2006-06-28 00:58
>あいさん
おお、ご覧になったんですね。 甲斐庄楠音って滅多にテレビで取り上げられない画家かと思いますし、貴重なプログラムでしたね。 「穢い」と言われてから、確実に表現が変化していくのがすごいなあ、と。「横櫛」で止まっていたら、「ちょっとグロ風味のある美人画」で終わっていたかも知れません。 「穢い絵だが生きている」という言葉と「屍体」と見る久世さんの評論、対極のようですが、人はどうして屍体になるか、どうして腐乱するかといえば、やっぱり 「生きている」 からなので。 生の無い者には、死もまた無いわけで。 久世さんが「穢い絵だが生きている」という言葉をご存知だったか知りませんが、やはりこの方の「審美の目玉」ってすげえなと、改めて『怖い絵』を読んで思いました。
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こまな
at 2006-06-28 19:18
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はじめまして。
私も「ぼっけえ、きょうてえ」でこの方を知りました。本当に偶然の出会いでした。 はじめてみたときは、「生々しさ」がすごく出ている絵だと感じました。 まさに「生きている」。 「生きている」とは何か。を伝えてくるような絵だと、また改めて思いました。
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red_95_virgo at 2006-06-28 22:36
>こまなさん
いらっしゃいませ、コメントありがとうございます。 しかも甲斐庄楠音の記事に(笑)。 反応される方はそんなにいらっしゃらないだろうなあ、と思ってました。嬉しいです。 「それでも、生きていかざるを得ない」 というのは筋少の“踊るダメ人間”という楽曲の最後で大槻ケンヂが言う台詞ですが、たとえば甲斐庄楠音という画家が夭折の天才であったなら、「穢い絵」伝説もまた違う輝き方をしたかも知れません。 しかしそうではなく、彼自身は結構な齢まで生き、美しいというより若干グロな女装写真を残したり、「畜生塚」という、まさに死の際の「生」を描き出さんとする絵に執着して、いろいろと足掻きながら生き切った人だったのだなと思います。 好きな画家はたいがい画集を座右に置いておきたくなるものですが、甲斐庄楠音については、そうはなりません。 やはり、自分にとってもあからさまに“怖い絵”とみえます(笑)。
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