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2005年 09月 17日
14日マチネに続き昨日16日も、こまつ座公演『小林一茶』を観てきました。
劇場は紀伊國屋サザンシアター。 『LAST SHOW』の時にもらったチラシに、北村有起哉さんの次の主演作とあったこの舞台。たいへん楽しみにしておりました。 席は前から2列目なれど超上手側。でも有起哉さんのおいしい場面はほぼ上手寄りだったので大満足だ! ああ、板に乗って、台詞吐いて、動いた途端、とことん官能的になる役者さんだなあこの人は。 日舞をやってらっしゃるだけあって、きものを纏った時の所作、裾捌き、立ち姿がとても絵になる。なんでもない動きが粋なんですよねえ……。 『義経』の五足の時にも思ったけど、長身でスレンダーで頭ちっちゃくて、本当にプロポーションが良くていらっしゃいます。 「男性はきもの着ると二割増ぐらいでいい男になるから、ぜひ着てください」 とは思いますが、ただえもんかけみたいにべろっと引っかけていたってだめなわけでね(女性もそうですが)。 きものという衣服を計算した動きというのが、色気というものを醸すには、やっぱり無くてはならないものなんだなあと、有起哉さんを見ているとつくづく感じます。 あ、あと、男性はきもの着る時は絶対に下帯をつけてください! 割れた裾前からのぞく下帯。 このセクシーさにまさるものは、男性の衣服の中でもなかなか無いと思うよ私は! ……と、下帯について熱く語りたい気持ちはひとまずおいといて、肝心の芝居のほう(笑)。 蔵前の札差・井筒屋八郎右衛門の寮から、四百八十両という大金が消え失せる事件が起きる(って、これは史実)。 井筒屋八郎右衛門は、またの名を「夏目成美」という、「江戸三大俳人の1人」と言われた江戸俳諧シーンの大立者。その寮で留守番に雇われていたのが小林一茶。 まず、一茶が犯人として疑われる(これも史実)。 一方で、おじさんのコネで転職したばかりの、「蔵前札差会所見廻同心見習」五十嵐俊介。腰が低いのと明るいのが取り得の青年。この事件の犯人を究明するべく、浅草元鳥越町の自身番にやってくる。 そこに集う「明神座」の連中を役者に仕立て、自らが「容疑者・小林一茶」に扮して、 「一茶の動機を探る」 という目的で御吟味芝居(つまりは劇中劇)を始めます。ときに文化7年(1810)11月8日の夜。 俊介は、同心見習になるまでは、市村座の狂言作者部屋で劇作の修行をしていた男なので、芝居を書くのはお手の物。 北村有起哉さんは、この五十嵐俊介と、劇中劇の小林一茶(前髪の16歳からウスラハゲの47歳まで)を演じます。 他の役者さんも、1人何役も兼ねるのが当たり前(ある1人を除いては)。舞台上で着替えしたり、装置の転換や効果音も役者がやってしまったり、劇中劇やってる最中なのに、演じている人間自身の意見がいきなり飛び出してきたり。 井上ひさしさんの戯曲は、一語一語に込められた情報量が膨大な上に、地口や言葉遊びもぽんぽん出てくる。 「私は戯曲の文体になるべく五七、七五の調子を忍び込ませるようにしています」 と書いておられるように、ぼーっと聞いているとすごく調子が良くて心地よく、ついうっかり調子の良さに騙されて聞き流しにしてしまうのですけど、そのすべて、非常に重い中味のある台詞の釣瓶打ち。 芝居を観るのは自分の頭にショックを与えたいためでもあるから、事前に出版された戯曲を読んで予習、という事は一切やらず、まっさらな状態で観劇しましたが、有起哉さんが井上芝居に出るのがはじめてなら、私だって井上芝居を観るのは今回がはじめて(笑)。 「自分はちゃんとこの物語を読めているのだろうか?」 と途中で立ち止まる事もしばしば。 そんな感じで観始めた『小林一茶』でしたが——ものすごく面白かった! 私の父はいわゆる「遊俳」です。「遊俳」とは他に仕事を持ち、趣味として俳句をやっている人の事。俳句で食うプロの俳句詠みを「業俳」というそうです。 父は自費出版で句集も出したりしているので、私は中学生の頃から父の語る俳句話に付き合ってきた。「俳句ってこんなもんだろうか?」という輪郭だけは、朧気ながらなんとなーくわかる、ような気がしないでも無い(笑)。俳句というのはそれだけ、「これだ!」と言い切る事が難しい芸術のように思う。 『小林一茶』という芝居は、一茶の半生をなぞりながら、そうした俳句、当時は俳諧といいましたが、そのうつろいやすさ捕まえ難さ、一度はまったら抜けられず、人生懸けて遊ばされてしまう麻薬のような魅力、そこにまつわる人のエゴや欲望、思いの美しさ、妄執のおそろしさ、そんなものを見せてくれた。 一茶が生きた時代のプロの俳諧師・業俳というものは、日本各地を回って金のある遊俳を訪ね、そこに厄介になって句を詠み、いくらかの草鞋銭を稼いでまた次の土地へ行く、というような事を主にやっていた。 たとえば新選組副長土方歳三の生家は武州石田村の豪農で、一族に俳諧の嗜みがあったから、業俳を家に招いて句会をしたりする事が多かった。歳三の発句趣味はそういう身近な場で培われたものと言われています。 薬の行商をしたり新選組副長をやったりしながら「土方豊玉」の俳名で『豊玉発句集』を編んだ歳三も、いってみれば遊俳。 で、業俳は他に仕事を持ってないから俳諧で食っていかなくちゃならないんだけど、これがなかなか大変な事で。田舎回りの草鞋銭稼ぎばっかりしていたって、地方にはろくな俳人がいないから刺激も無く自分の芸も磨けない。やっぱりプロの俳諧師たるもの、江戸や京大坂といった都会で認められなければだめなのだ。俳諧には「座」というものがあって、プロアマ問わずすぐれた俳人が集まって「座」を形成し、そこに加われば金持ちの旦那衆である遊俳たちとのコネがつけられる。パトロンになってもらえる。金を出してもらえる。食うための金を稼ぐ事に悩まされず、俳諧だけで生きていける。 夢のような話です。 継母との折り合いが悪く、長男なのに家を継がせてもらえず、故郷を離れて江戸に出てきた16歳の一茶は、俳諧というものに自分の才能のありどころを見つけ、業俳として立つために、他人を踏みつけにしたり出し抜いたり(のつもりが逆に出し抜かれたり)して生きていく。 業俳であるというプライドと己の俳諧に対する絶対の自信を抱えながら、しかし旦那衆の前ではそのご機嫌を取り結び、酒の席での幇間のような屈辱的な行為も、旦那に「やれ」と言われればしなくてはならない。 そんな事を繰り返しながら、一茶の詠む句はますます磨かれ、その才能は称賛されていく。 その一茶に影のように沿っていくもう1人の業俳・竹里。 竹里は少年の一茶に俳諧の手ほどきをした男。しかし業俳としての成功が手に入る寸前で一茶にそれを横取りされ、俳諧師としての才能においても一茶には到底敵わないと自覚させられ、俳諧シーンでのしあがろうとする一茶とは逆に、俳諧を捨て、どんどん転落していく。 この竹里を、高橋長英さんが演じています。 長英さんといえば私にとって忘れる事ができない、デフォルト山南敬助さんである。 はるか昔に放映されたドラマ『新選組始末記』で長英さんの演じた山南さんを見て以来、自分の中では、昨年の大河で堺雅人の山南敬助を見るまで、長らく「山南さん=長英さん」でした。真面目で穏やかで、しかしいまいち押しの弱い悲劇のインテリというのが、まさにぴったりはまっていた。 その時の土方が古谷一行。植物的・草食動物的な長英さんに比べて一行はまあ脂ぎってるといいますか実に憎ったらしくって、 「こんな天パで鼻の穴のでかい土方なんて私は死んでも許さないよ!!」 と、既にその頃『燃えよ剣』を読んでいた身としては机を叩いてくやしがったものでございます。 『おはつ』で沖田総司を演じた有起哉さんとその長英さんが、紀伊國屋サザンシアターの舞台に並んで立っているんだもの。 「あああ理想の沖田山南ツーショットがまさに今、私の目の前に!」 と、芝居の本筋は完璧に外して私は勝手にウットリしてしまいましたよ。 そんなよこしまな新選組ファンの下心というのも、今回の『小林一茶』のチケット買う時にはバリバリにあったわけで。ええ、邪念ありまくり(笑)。 一茶と竹里はモーツァルトとサリエリのようでもあり。 どっちかが上手くいきそうになると決まってどっちかが邪魔をする。腐れ縁とはこういう事かとも思う。竹里は一茶の野望の踏み台にされて、だめになってゆくいっぽうの半生を辿り、その事で一茶を怨み憎んでもいるが、反面一茶のキラキラする才能に自分でもどうしようもなく惚れている。二人の間には「およね」という女が絡むのだが、彼女が自分で「あたしは俳諧に負けた」と述懐するように、『小林一茶』という芝居は、俳諧というものに魅入られた一茶と竹里の愛憎劇だと思う。 「座」という集団に加わる事を熱望しながら、「座」から排除され続ける一茶。 演出の木村光一氏は「座」について、 「同じ目的を持った人たちが集うことなんだろうけど、そこには必ず談合とか癒着、馴れ合いが生まれる。トラブルメーカーを避けて、都合のいい人間だけの利を求める部分が生まれる」 と語り、「醜さ」「あざとい」「薄汚い」という言葉を使って、「座」への嫌悪感を表明しています。 そういう「座」なら、べつに江戸時代の俳諧シーンに限らず、今だってあっちこっちに存在していますよね。 他者を排除する、濃密な「仲間」意識の塊のような場が。 一茶が芸術家として後世に名を残す事ができたのは、こうした「座」から離れ、中央俳壇のある江戸を離れ、故郷でひとり、発句をつくる事に励んだためだと、「座」から自由になったからこそできたことなんだと、木村さんは言う。 四百八十両盗難事件の背後には、実は浅草元鳥越町の自身番に集う「座」の連中の陰謀が存在し、無実の一茶をその犯人に仕立て上げようとしていたに過ぎないという事が、芝居の最後で明らかになります。 「座を捨てて、ひとりになるんだよ」 「小林一茶」を演じていた五十嵐俊介は、そこでこう叫ぶ。 一茶を演じ一茶に同化する事で、一茶の俳諧に懸ける思い、その苦闘を身を以て解ってしまった俊介は、同心見習という、世間的には成功を約束されたも同然のおいしい仕事を捨て、十手と大小を放り出し、もとの狂言作者に戻ると言って、自身番を去って行く。 一茶でもあり俊介でもある存在が口にしたこの台詞には、俳諧師と狂言作者という、同じ「ことば」というものを武器にして世界と闘っていこうとする者たちの、 「ひとりになる事を俺は決して恐れるまい」 という決意が溢れていた。 それはすなわちこの芝居の狂言作者=井上ひさしさんの決意にほかなるまい。 胸の底がじんと熱くなりました。
by red_95_virgo
| 2005-09-17 17:03
| 北村有起哉
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Comments(4)
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by
プリッシマ 安部
at 2005-09-18 21:05
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北村有起哉のマネージャーの安部です。素晴らしい感想ですね。感動しました。ここまで感じてくださる方がいるのなら、また明日から新たな気持ちでがんばっていこうと心から思いました。エネルギーをありがとうございました。
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by
red_95_virgo at 2005-09-18 21:27
>安部さま
まさかコメントを頂けるとは……私のほうこそ感激です、ありがとうございます。 「一葉の寫眞」さんをときどき覗かせていただいておりまして、メルマガ申し込みのために安部様にメール差し上げようかと思っていた矢先でした(笑)。 まだまだこの先も全国で公演は続きますが、12月の山形こまつ座まで、無事に終了される事を祈っております。 そして2006年公演の『メタルマクベス』、早くもかなり楽しみです! がんばってチケット取りますので(笑)。
『小林一茶』の感想を拝見させて戴き、感銘を受けました。
自身番・そして御吟味芝居での全く異なる軸から浮かび上がる 一茶・俊介の思いがリンクしていくラストは胸にズシっと来るものですね。 先日1週間振りに観劇致しましたが、一茶・俊介の思いがより力強く 伝わってくるものでした。 舞台の持つパワーを改めて感じさせられるものです。 以前からサイトの方を覗いて戴いていたとのこと、有難うございます。 また、これからも宜しくお願い致します。
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by
red_95_virgo at 2005-09-20 03:35
>静流さま
いらっしゃいませ、コメントありがとうございます。 『おはつ』を観たあとぐらいから、ときどき貴サイトを訪問させていただいてます。 私は北村有起哉さんに関しては本当に初心者もいいところなので、いろいろと情報をいただけて感謝しています。 『小林一茶』の有起哉さんですが、最初弥太郎で出て、そのあと俊介になって出ていらした時、あんまりかっこいいので椅子から落ちそうになりました。もう、絵に描いたような「八丁堀の旦那」の理想型が目の前に!という感じです(笑)。
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